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風林火山

風林火山」と言えば、「武田信玄」を連想しますよね。ご訪問いただいているみなさんも、同じ感覚をお持ちではないでしょうか? 現に「風林火山」は、戦国武将 武田信玄の旗指物に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称とされています。


現在NHKで放送されている大河ドラマ「風林火山」のオープニングでも、「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し。」と読み上げられますね。ウィキペディアの力をお借りすると、「風林火山」とは要するに、「移動するときは風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように、防御するときは山のように。」という軍隊のあるべき姿を説いたものと言えます。


実はこの「風林火山」、昔の中国の思想家 孫武が書いたといわれる「孫子」という兵法書から引用されています。「孫子」は、「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」という一節でも有名ですね。


風林火山」の元となる一節は、ウィキペディアの力をまたお借りすると、「軍争篇」という編に書かれているそうです。「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆」と書かれ、「移動するときは風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように。隠れるには陰のように、防御は山のように、出現は雷のように。」という意味だそうです。ただ、複写された本では、「難知如陰」と「不動如山」が逆に記されている場合もあり、「風林火山」は逆になったものの前の四句を抜き出したものと考えられるそうです。


まぁ、「風林火山」とは、“やるときは中途半端は禁物。徹底的にやれ!”ということことなのでしょう。何でも中途半端なZAKKUNとしては、よく覚えておくべき言葉のような気がします(笑)。


ウィキペディア「風林火山」: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E6%9E%97%E7%81%AB%E5%B1%B1



テーマ:雑学・情報 - ジャンル:学問・文化・芸術

平安時代の話「土蜘蛛」
10月23日のブログに引き続き、平安時代の不思議な話をご紹介します。今回は「土蜘蛛」という話で、このブログに何度か登場した源頼光(みなもとのよりみつ)と彼の家来たち“四天王”が主人公ですが、話としては短いものです。

平家物語」(鎌倉時代に成立)の「剣巻」によると、次のような話になるようです。

渡辺綱(わたなべのつな)がの腕を斬り落とした(10月23日のブログの「一条戻橋の鬼女」という話のことです。)年の夏、源頼光が瘧病(おこりやまい:周期性の熱病のこと。)に罹った。どうしても熱が下がらず、床に臥せること三十日余りが過ぎた。四天王らも付きっきりで看病していたが、ある日、源頼光の熱が下がってきたので、四天王らは別の場所で休んでいた。

その夜、源頼光が寝ていると、ともし火の影から背丈七尺(約2.1m)くらいの法師が現れた。そして、するすると枕元に近寄り、持っていた縄で源頼光を縛ろうとした。源頼光はこれに驚き、飛び起きて「この頼光に縄をかけようとは何者だ、悪人だな!」と、枕元に立てかけてあった名刀「膝丸」を抜いて斬りつけた。物音を聞きつけた四天王らが駆けつけ、「何事ですか」と尋ねたが、そこに法師の姿はなかった。

しかし、ともし火の下を見ると、血がこぼれていた。火をともして血の跡をたどると屋敷の外に続き、さらに追って行くと北野天満宮の後ろまで続いていた。そして、そこには大きな塚があった。

すぐにこの塚を掘り崩してみると、四尺(約1.2m)くらいの土蜘蛛(蜘蛛の妖怪)が出てきた。源頼光に斬りつけられていたため、すでに弱っていた。これを見た源頼光は、「こんな程度の奴にたぶらかされて三十日以上も悩まされていたなんて、なんと不甲斐ないことだ。大路にさらすべし。」と命じた。土蜘蛛は鉄の串に刺されて河原に立てられ、さらしものになった。これにより、名刀「膝丸」は「蜘蛛切」と号することになり、源頼光から源氏に代々伝えられることになった。

※「土蜘蛛」の話は、「平家物語」の「剣巻」によるものとは別に、その後成立した「土蜘蛛草子」(鎌倉時代末期に成立)によるものもあり、こちらはもっと複雑な話のようです。


ウィキペディア「膝丸」: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E5%88%87


テーマ:日本昔ばなし - ジャンル:学問・文化・芸術

高知ひとり修学旅行 2
前回に引き続き、今日は“高知ひとり修学旅行”の2日目について書こうと思います。2日目の11月18日(土)は、高知城で配布していた「土佐 山内家ゆかりの史跡めぐり」というパンフレットを参考にしながら、高知市内を散策してみました。

長屋展示館 長屋展示館 まず、最初に行ったのが、「旧山内家下屋敷長屋展示館」。こちらは、ぐぐっと時代が進んで幕末ですが、山内家下屋敷(隠居した元藩主や藩主の一族が住む屋敷なんだそうです。)を警護する侍のための長屋だったそうです。これを建てたのは、15代藩主 山内豊信(やまうちとよしげ)とのこと。1階は、当時の長屋の様子を紹介する、すごくシンプルな展示内容でした。2階は、土佐出身の偉人をパネル展示で紹介しています。紀貫之から板垣退助まで、土佐出身の偉人はたくさんいたんですね、その多さにちょっとビックリしました。入場は無料でした。

山内神社 山内神社 「旧山内家下屋敷長屋展示館」からほんのちょっと歩くと、「山内神社」があります。1871年(明治4年)、16代藩主 山内豊範(やまうちとよのり)が建てた神社だそうです。現在は、山内一豊夫妻と歴代藩主が祀られています。もともと、14代藩主までは「藤並神社」という神社に祀られていたそうですが、のちに合祀されたとのことです。

山内容堂公像 「山内神社」の境内にある「山内容堂公銅像」。上の「旧山内家下屋敷長屋」を建てた15代藩主 山内豊信は、隠居後に「容堂」(ようどう)と名を変えて余生を送ったそうです。この人は、幕末四賢侯のひとりとして有名であり、将軍 徳川慶喜に大政奉還を建白したとされています。銅像は、杯を手に「大政奉還を慶ぶ…」との説明があります。

宝物資料館 次に行ったのが、山内神社の隣にある「土佐山内家宝物資料館」。財団法人にて運営されており、山内家伝来の資料、美術工芸品などの保存・研究・公開などを目的とした資料館です。所蔵資料は、約6万7千点。施設自体はそれほど大きくありませんが、見応えのある展示が並んでいました。ここでは、団体ツアー客が来ると学芸員の方が解説してくれるようです。ZAKKUNは団体客に紛れ込んで、解説を聞かせてもらいました。しかも、次に来た団体も、その次の団体もということで、同じ解説を3回聞かせてもらいました(笑)。2時間くらい、ゆっくり見せてもらって、ちょっと足が痛くなりました。入館料は300円でした。

この後、ちょっと遅い昼食を食べました。うどんと土佐巻(かつおのたたきを巻いた太巻でした。)、美味しかったです。満腹感に浸りながら、次は高知県立文学館に行きました。途中、山内家の家臣である五藤家の屋敷の前を通りました。山内一豊の顔に刺さった矢を、五藤為浄(ごとうためきよ)は一豊の顔を踏みつけて引き抜いたといわれています。このとき履いていた草鞋は、五藤家の家宝として代々守られ、現在は「安芸市立歴史民族資料館」という所に保存されているそうです。屋敷には「五藤」という表札が出ていたので、今でも子孫の方が住んでいらっしゃるんでしょうね、きっと。

文学館 「高知県立文学館」は、そのスペースの一部を「土佐山内家宝物資料館」の特別展示会場にしています。行ってみると、「高知城築城と山内家のくらし」と題した特別展示が開催されていました。二部構成で、まず、山内一豊による高知城築城の様子と、その後の修理や大火で焼失した城の再建についての展示。これに続き、資料や屋敷跡から発掘された品から考察できる山内家のくらしの解説でした。展示室内に椅子があったこともあり、1時間以上ゆっくり見せてもらいました。入場料は、高知城にも行ったということで割引があり、240円でした。(「高知城築城と山内家のくらし」は、2006年10月21日から12月26日まで。)

このあと、雨が降っていたこともあり、アーケードのある商店街を散策。こんな感じで2日目は終わってしまいました。


土佐山内家宝物資料館のHP: http://www10.ocn.ne.jp/~yamauchi/



テーマ:歴史散策 - ジャンル:旅行

高知ひとり修学旅行 1

11月17日から19日までの2泊3日で、ひとりで“大人の社会見学”に行って来ました。行き先は高知高知市でした。ZAKKUNの“大人の社会見学”については、9月5日のブログに書きましたが、今回は現在NHK大河ドラマになっている「功名が辻」をテーマにしてみました。テーマから見て、社会見学というよりは、“修学旅行”ですね。


高知県、あるいは昔の国名でいう「土佐」といえば、人物では坂本龍馬、場所では四万十川も超有名ですが、今回は2泊3日という限られた時間なので、「功名が辻」というテーマで高知市内を散策してみました。


富士山 さて、11月17日(金)は、札幌発羽田行きの飛行機の始発便に乗るため、朝5時に起きました。外は雪が降っていましたが、始発電車に乗り、新千歳空港に無事到着。飛行機も無事出発し、羽田空港に到着。高知行きの飛行機に乗り継ぎました。写真は、高知行きの飛行機の窓から見えた富士山です。


焼豚寿司 焼豚寿司 羽田空港で買った、昼食用の空弁「炙り焼豚寿司」です。開けてみてビックリ。切れていない棒寿司が1本まんま…。これを付属のプラスチックナイフで切って食べるというものです。(切れていないことは、箱に明記されています。) 狭いエコノミー席にて、これを切って食べるのは結構たいへんでした。お味はというと…、“電子レンジで温めたら美味しいだろうな”なんて思いました。ご飯がちょっと水っぽい感じでした。ちょっと残念。


飛行機は、高知龍馬空港に無事到着し、空港から高知駅前までは連絡バスで約30分でした。高知駅前には、14時30分前に到着。ちなみに「高知龍馬空港」は、日本で唯一の人名が付いた空港です。ニューヨークの「J・F・ケネディ国際空港」やパリの「シャルル・ド・ゴール国際空港」のように、人名が名称になっている空港は外国にはよくあるんですが、日本国内では唯一とのことです。


二十四万石博 まずは、高知に行きました。高知一帯では、2006年4月1日から2007年1月8日まで、「土佐二十四万石博」が開催されています。大河ドラマ「功名が辻」と連動したイベントと言えるでしょう。写真は、高知会場の入口の様子です。向こうに高知の天守閣が見えます。会場に入ってみると、“博”という名前が付いてはいますが、無理にイベントをつくっている様子は感じられず、ものすごく日常的な雰囲気でした。人ごみに悩まされることもなく、とはいってもお客さんがいないわけでもない、活気ある普通の下って感じで、すごく良い雰囲気でした。なお、この会場に入るだけなら無料でした。


大河ドラマ館 会場を進むと、「大河ドラマ館」がありました。こちらは、大河ドラマ「功名が辻」のストーリーを中心とした山内一豊千代夫妻の生涯や、実際に撮影で使われた衣装・小道具なんかが展示されています。入場料は、「大河ドラマ館」と「高知」のセット券で800円でした。展示は分かりやすい内容で、おもしろかったですよ。なお、「功名が辻」は土佐藩初代藩主 山内一豊とその妻の生涯を題材にした小説であり、史実とは違う部分がありますので念のため…。


追手門 「大河ドラマ館」を出て、さらに進むと、高知の門がありました。「追手門」という、高知の正門です。敵が攻めてきた場合は3方向から攻撃できるよう、“コの字型”の空間がつくられ、その1面が大きく頑丈な門になっています。立派な門でした。


山内一豊像 妻と名馬の像 高知の敷地内にある銅像です。左は、「功名が辻」の主人公 山内一豊の銅像です。山内一豊は、1545年(天文14年)尾張国に生まれたとされています。右は、同じく主人公 千代と、彼女が一豊に買ってやっととされる名馬の像です。小説やそれを元にした大河ドラマでは、一豊の妻の名前は「千代」とされていますが、史実的には名前は分かっていないそうです。判明しているのは、出家後の名前「見性院」のみとのこと。また、彼女が一豊に名馬を買ってやっととされる話も、事実かどうかは分からないそうです。とはいえ、この夫婦が戦国時代を生き抜き、努力と出世を重ね、ついには一国の藩主になったことは紛れもない事実だと思います。


高知城 高知城 11月17日の最後として、高知の天守閣まで登ってみました。高知は、山内一豊が土佐に入国した後に築したです。着工は1601年(慶長6年)、2年後に一豊が入し、以後、土佐藩主山内家の居になりました。その後も工事が進み、完成までに10年が費やされたそうです。しかし、1727年(享保12年)、下町の大火ではほとんど焼失してしまったとのこと。その後、また約20年かけて再建し、現在の天守閣は1748年(寛延元年)に完成したものだそうです。


階段 天守閣の階段です。この階段を最上階(5階)まで上っていくわけです。すごく急な階段で、転げ落ちそうな感じです。なお、高知は1934年(昭和9年)に国宝になり、1950年(昭和25年)に文化財保護法に基づき、国宝から重要文化財になりました。


高知ひとり修学旅行の初日は、こんな感じでした。2日目・3日目はまた後日続けたいと思います。


高知県のHP内「観光振興課」のHP: http://www.pref.kochi.jp/~kankou/


「土佐二十四万石博」ホームページ: http://www.tosa-yamauchi.com/24/


高知公式ホームページ: http://www.pref.kochi.jp/~kochijo/



テーマ:歴史散策 - ジャンル:旅行

平安時代の話「一条戻橋の鬼女」

10月17日のブログに引き続き、平安時代の不思議な話をご紹介します。今回は「一条戻橋女」という話で、前回出てきた源頼光(みなもとのよりみつ)の家来で四天王のひとり、渡辺綱(わたなべのつな)が主人公になります。


平家物語」(鎌倉時代に成立)の「剣巻」によると、次のような話になるようです。


まんが日本昔ばなし らしょうもんのおに なお、「まんが日本昔ばなし」に、「らしょうもんのおに」という題名の話がありますが、これは「一条戻橋女」を子供向けに解りやすく書き直したものだと思われます。


ある日の夜、渡辺綱は、源頼光の使いとして平安京の一条大宮という所まで行き、その帰り、「戻橋」(「堀川」という川に架かる一条の橋)のたもとまでやって来た。すると、二十歳くらいの女がひとりで歩いていた。夜更けに連れもなしに歩いているので、「どこに行くのか?」と尋ねると、肌の白い美女だった。女は「五条までですが、物騒なので送ってもらえませんか?」と答えた。渡辺綱は女を馬に乗せて送ってやることにした。


堀川小路を下り、五条に近付くと、女は「実は、私が住んでいるのは都の外なのです。そこまで送ってもらえませんか?」と言い出した。渡辺綱は「良いですよ、送りましょう。」と答え、馬を走らせた。そのとき、女は突然、に変身した。渡辺綱の髻(もとどり、束ねた髪のこと)をつかみ、「行くのは愛宕山だ!」と叫んで空中に飛び上がった。渡辺綱は振りほどこうとしたが、の力はとても強かった。そこで、渡辺綱は携えていた名刀「髭切」を抜き、の腕を斬り落とした。渡辺綱は、北野天満宮の回廊の屋根に落ちたが、はそのまま愛宕山の方角に飛び去った。


渡辺綱は、の片腕を持ち帰り、源頼光に見せた。源頼光渡辺綱の手柄を褒めつつも、驚き悩んだ上、陰陽師 安倍晴明(あべのせいめい)に相談した。安倍晴明は「渡辺綱に七日間の物忌みをさせなさい」「の腕を封じておきなさい」「仁王経(にんのうぎょう)を唱え続けなさい」と告げた。


七日間の物忌みの六日目、渡辺綱の屋敷に、渡辺綱の養母が訪ねてきた。渡辺綱が「七日間の物忌みの最中なので、明後日になったら屋敷に入れてあげられる」旨を伝えると、養母は「苦労しながら育てたのに、門のなかにも入れてもらえないのか」と泣いた。渡辺綱は情に負けて、養母を屋敷に入れた。


養母が「七日間の物忌みとは何事ですか?」と尋ねたので、渡辺綱は一連の出来事を養母に話した。すると、養母はの腕をぜひ見せてほしいと頼んだ。渡辺綱は封じていたの腕を取り出すと、養母の前に差し出した。養母は「これは恐ろしい、の腕とはこんなものなのですか。」と言って、食い入るように見ていた。そして、養母は立ち上がりながら「これは私の手だから、返してもらうぞ」と言って、恐ろしいに変身し、自分の腕を取り戻すと空に飛び去ってしまった。


ウィキペディア「渡辺綱」: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B6%B1


ウィキペディア「一条戻橋」: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%88%BB%E3%82%8A%E6%A9%8B


ウィキペディア「髭切」: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%AD%E5%88%87 



テーマ:日本昔ばなし - ジャンル:学問・文化・芸術

平安時代の話「酒呑童子」
前回(15日)のブログにちょっとだけ書いた「酒呑童子」(しゅてんどうじ)の話をご紹介します。「酒呑童子」は、平安時代中期に丹波国の大江山(現在の京都市と亀岡市の境にある「老ノ坂峠」がある山だそうです。)に住んでいた鬼の頭領の名前です。もちろん、鬼が実在したとは思えませんが…。

「大江山絵詞」(室町時代中期ごろ成立)、「酒伝童子絵巻」(室町時代後期ごろ成立)、「御伽草子」(室町時代から江戸時代にかけて成立)といった書物を総合すると、次のような話になるようです。

酒呑童子(酒顛童子、酒天童子、酒伝童子とも書く。)は鬼の頭領で、一条天皇の頃(平安時代中期)に大江山を棲みかにしていた。時々、平安京に手下の鬼達を送り込んでは、人を誘拐して、殺したり喰ったりしていた。ある日、右大臣 藤原道長(ふじわらのみちなが)の子供が行方不明になり、陰陽師 安倍晴明(あべのせいめい)が占ったところによると「都の西北に大江山があり、そこに棲む酒呑童子と名乗る鬼神の仕業」とのこと。一条天皇は、武将 源頼光(みなもとのよりみつ)に酒呑童子討伐の勅命を下した。

源頼光は、四天王と呼ばれる彼の家来、すなわち、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)の4人に、平井保昌(ひらいのやすまさ)を加え、討伐の準備をした。鬼を討つには武勇だけでは不十分と考え、熊野神社、石清水八幡宮、住吉神社などに代参を送り祈願もした。

準備が整い、源頼光の一団は都を下ったが、大江山に近付くと、源頼光、渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光、平井保昌の5人だけで接近を試みた。その途中、老人と山伏が5人の前に現れ、「神変鬼毒酒」(しんぺんきどくしゅ。「神便鬼毒酒」とも書く。)という、人間には妙薬だが鬼にとっては毒となる酒をくれ、また道案内もしてくれた。実は彼らは、熊野神社、石清水八幡宮、住吉神社などの神の化身だった。川で洗濯をする老女に酒呑童子の様子を聞くと「都から連れてこられた女達を料理して喰っている。」「式神や護法を使って都を守護する安倍晴明がいるため、胸を叩き歯を食いしばって怒っている。」とのこと。

酒呑童子ら鬼の棲みかについた5人は、道に迷った山伏のふりをして一夜の宿を願った。そこには、平安京から誘拐されてきた人達が捕らわれていた。源頼光らは泊めてくれるお礼だと言って、「神変鬼毒酒」を差し出し、酒宴になるよう仕組んだ。酒呑童子や手下の鬼らは「神変鬼毒酒」を飲んで寝てしまった。

そこで、源頼光らは酒呑童子の首をはね、手足を斬りつけた。すると、酒呑童子の首が宙に飛び上がり、源頼光の兜に噛み付いてきたが、身につけていた魔除けの星冑(ほしかぶと)のため襲いきれなかった。酒呑童子の首は最後の力を振り絞り、宮廷に向かって飛び立ったが、平安京安倍晴明の護法によって守られていたため襲うことができず、落下し息絶えた。源頼光らは酒呑童子の首を拾って平安京に戻り、多くの人がその様子を一目見ようと集まった。


テーマ:日本昔ばなし - ジャンル:学問・文化・芸術

なんとも不思議な平安時代
昨日(14日)は、地元のイベントに参加してきました。晴れてましたが、風が冷たく、すごく寒い一日でした。そのためか風邪をひいてしまい、今日(15日)は一日中パジャマで過ごすことになってしまいました。 

さて、布団の中で鼻をかみながら、いろいろな本を読んでいたのですが…、日本の歴史の中で人気があるのは、やはり戦国時代でしょうか? 幕末から明治維新にかけても人気が高いのではないかと思います。ZAKKUN的には、平安時代にも興味をそそられます。その平安時代ですが、話の中に“現実離れしたものが多い”のがおもしろいなと感じます。 

例えば、源義経(みなもとのよしつね)。「壇ノ浦の戦い」の際、“八艘飛び”をしたというのは有名です。舟8艘分の距離を飛んだのか、飛び移りながら8艘を渡ったのか…、まぁ、どちらにしても、重い甲冑を身にまとってできることではありません。ましてや、武蔵坊弁慶の薙刀の刃の上に跳び乗るなんて、現実的に無理でしょう(笑)。この源義経という人物。実在したであろうことはほぼ間違いないと考えられますが、彼が旅した経路や家来に関することなんかは、実はあまり解っていないのだそうです。数年前のNHK大河ドラマのあらすじは、説のひとつなんだそうです。 

ちょっと時代を遡って、源頼光(みなもとのよりみつ)。日本昔ばなしなどでは「みなもとのらいこう」という呼称で登場する平安時代中期の武将です。“四天王と呼ばれる4人の家来とともに、大江山に住む酒呑童子(しゅてんどうじ)というの頭領を退治した…”などなど、彼は妖怪に関するいろいろな話に出てきます。また、近年女性に人気のある安倍晴明(あべのせいめい)も、陰陽師として同時期に活躍した人物ですが、彼の周りはまさに妖怪だらけ。このへんの昔ばなしは、後日ブログにしようと思いますが、さすがに平安時代でも、現実に妖怪なんていなかったと思います。 

このような平安時代の不思議な話は、いろいろな背景があるのではないでしょうか? 例えば、当時は史実を正確に書きとめる習慣がなかったのかもしれませんね。人物の活躍をおもしろおかしく誇張するような文化が当時、あるいは後の世にあって、そのためこんな話になってしまったのかもしれません。また、当時の盗賊や反体制的な人間などが、妖怪とされたのかも…。今となっては分からないことが多いですが、平安時代は確かに存在したと思うと、さらに興味がそそられてしまいます。





テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

仙台日帰り散策
10月1日(日)、仙台へ日帰り散策に行ってきました。この話、いきなり決行したわけではありません。2か月前から散策に行くことを決めていました。というのは、2か月前に、日本航空・全日空の両航空会社が、10月1日〜5日搭乗の特別割引運賃を設定して売り出しましたが、空席を見つけた喜びと安さに引かれ、チケットを買っていたのです。 

どちらの航空会社も、日本全国1便8,000円弱という運賃設定でした。ZAKKUNは、マイレージ会員のための先行予約期間の初日の夜、仕事から帰ってきて空席を確認したのですが、とき遅く当たり前のように、札幌−東京・名古屋・大阪・福岡・那覇の各便は、ほぼ完売でした。“これでは安い運賃を利用して旅行はできない”とあきらめかけたところ、全日空の札幌発仙台行きの始発便と仙台発札幌行きの最終便に空席があることを発見! 始発便は8:45発で比較的朝早く、最終便は20:00発と比較的遅いわけです。しかも、札幌と仙台の間は空路で1時間程度、仙台空港とJR仙台駅の間は連絡バスで40分程度。“散策する場所を絞れば日帰りで楽しめる”と咄嗟に思いつき、チケットを購入しました。ちなみに運賃の名前は「超割スペシャル」。ネット割引が適用されて、1便7,550円でした。 

るーぷる仙台 さて、当日は朝6時起きになりましたが、特に問題なく飛行機にも乗れ、JR仙台駅には11時ごろ着きました。前もって調べたところ、仙台には「るーぷる仙台」という観光スポット循環バスが走っているとのことで、600円の1日乗車券を買って散策することにしました。仙台といえば、私の頭にはやっぱり“伊達政宗”が思い浮かびます。日帰りという限られた時間ですから、“伊達政宗”関連スポットに絞って回る計画を立てました。 

瑞鳳殿 最初に行ったのが、「瑞鳳殿」。「るーぷる仙台」が出発するJR仙台駅前から4つ目の停留所で降ります。ここは、政宗公の遺命により建築された御廟(霊を祭った宮のこと。)です。色鮮やかに顔料が多用されています。ただし、もともとあった建物は1945年に空襲で焼失してしまったんだそうです。現在の建物は、1979年に忠実に再建されたものとのこと。 

日本庭園 このような風景は、歴史の浅い北海道ではなかなかありません。趣があって良いですね。同じ敷地の中には、仙台藩二代藩主 忠宗公の御廟「感仙殿」、三代藩主綱宗公の御廟「善応殿」、他の藩主の墓石や「瑞鳳殿資料館」など、結構観るところがありました。観覧料は、「るーぷる仙台」の1日乗車券を持っていると割引されるとのことで、450円でした。 

仙台市博物館 次に行ったのは、「仙台市博物館」。次の停留所「博物館・国際センター前」で下車。着いたのは12時過ぎで、とりあえず、館内のレストランにてランチ。その後、常設展示と特別展を観ました。いくらだったか忘れてしまいましたが、こちらも1日乗車券を見せると割引料金になりました。さて、常設展示は仙台藩の歴史を中心に、かなり見応えのある内容でした。もちろん、政宗公関連グッズもたくさん展示。一方、特別展は「大江戸動物図鑑」と題して、江戸時代に描かれた動物の絵や記録から、人魚や河童のミイラ(と称されるもの)まで、動物にまつわるいろいろな展示がされていて、こちらもなかなかおもしろかったです。すっかり見入ってしまって、15時過ぎまでここにいました。(「大江戸動物図鑑」は、2006年9月22日から11月5日まで。) 

五色沼 バス停と仙台市博物館の間に「五色沼」という沼があります。青葉城の壕だったのでしょうか? ふと見ると、ここが“フィギュアスケート発祥の地”なんだそうです。へぇ〜。 

青葉城資料展示館 伊達政宗公騎馬像 最後に行ったのが「青葉城跡」。次のバス停「仙台城跡」で降ります。ここでは、「仙台城見聞館」、「青葉城資料展示館」(ここのみ有料。1日乗車券を見せて500円になりました。)、「伊達政宗公騎馬像」の順に回りました。ちょっと残念なのが、「るーぷる仙台」の最終便の時間が「仙台城跡」発16:22だったこと。もう少し遅い時間だったら、落ち着いて見学できたのですが、とにかく時間がなくて早歩きしました。 

青葉城石垣 写真は、バス停で待っているときに撮った、青葉城の石垣です。9月18日のブログで、ポンペイ島にある巨石を使ったナン・マドール遺跡のことを書きましたが、日本人が造った城の石垣もすばらしいものがありますね。石ひとつひとつが違う形をしているのに、隙間なくピシッと積み重ねられ、きれいに削られています。詳しい工法は知りませんが、“昔の日本人の築城技術は見事だ”というほか、言葉がありません。ほんとすごい…。 

その後、「るーぷる仙台」と空港連絡バスを乗り継ぎ、仙台空港まで戻りました。空港では、牛タン、長茄子の漬物、笹かまぼこ、一の蔵(日本酒)といった仙台名物を買いました。ちょっと出発が遅れた札幌行きの最終便でしたが、無事、新千歳空港に着陸し、自宅には23時ごろ着きました。

ハードスケジュールではありましたが、仙台藩と伊達家について観て回ることができて、楽しい1日でした。また格安航空券が手に入ったら、どこかを1日散策したいです。


瑞鳳殿のHP: http://www.zuihoden.com/




テーマ:歴史散策 - ジャンル:旅行

日本の昔の国名
中学生のときも高校生のときも、ZAKKUNにとって「日本史」は嫌いな授業のひとつでした。今はどうか知りませんが、当時(もう15年以上も前になります(笑)。)、北海道では多くの高校が、修学旅行の行き先として奈良や京都を行程に盛り込んでしました。連日、寺や仏像を観て回り、「ここ、昨日来たんじゃないの?」「また寺かよ…」なんて、頭悪そうな文句を言っていた記憶があります。

不思議なもので、20代後半になってから日本の歴史に関する事柄がおもしろく感じるようになってきました。ほんと不思議です。あんなに嫌いだったのに。NHKの大河ドラマも観ています。同じく「その時 歴史が動いた」という番組も解りやすくて良いですね。そんなこんなで、休暇とお金の都合がついたら、歴史的な場所を旅行したり、途中で寄ったりして、今更ですが“大人の社会見学”を楽しんでいます。(※行った所の話は、その行ったときに書こうと思います。)

前置きが長くなりましたが、日本史関係の事柄によく出てくるもののひとつに、“昔の国名”があります。日本の歴史を楽しむためには、重要なポイントですよね? 日本の昔の国のことを「令制国」とか「律令国」というそうです。(※詳しくはウィキペディアの該当ページを読んでみてください。)

尾張、三河、加賀、土佐…、このあたりは有名な大名の所縁の地ですから、まぁ今でいうとこの辺って分かりますし、読むこともできます。駿河、伊勢、伊豆、長門、薩摩、長州、越後、出雲なんかも、場所もだいたい知ってます。

さてさて、備後、安房、遠江、これらを読めますか? 「びんご」「あわ」「とおとうみ」と読むんだとか。難しい…(汗)。美作「みまさか」、伯耆「ほうき」、周防「すおう」も読めません…(汗汗)。豊後は「ぶんご」、ブンゴスイドウ(豊後水道)と言われれば聞いたことありますが…。常陸は「ひたち」、日立なら知ってるけど…(苦)。上野は「うえの」ではなく「こうずけ」と読むのですか?(汗汗汗)

蝦夷地生まれの私には難解です。


「横浜金沢」(小岩 允さんのHP)内「旧国名地図」: http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kokumeitizu.htm

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術



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